そんなこんなうにゅうにゅ書いていたら

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これに言いたいことが結構書いてありました

「体温がわからない」とか「ぬくもりがわからない」とか、ものすごい精神論的な世界っていうか、観念論的な話になっちゃうんで、それはまた違うと思うんです。

香山:「自分(親)にできないものに対して子どもが夢中になっている状態」は、親にとっては脅威なわけですよ。小説だったら「私も小さいころ、こういうのを読んでたわ」って思えるけど、ゲームをプレイしていない世代の親にとってはわからない。そういう場合、「テクノロジーについていけないという自分側の不安」もすごくあるので、よけい否定したくなるわけですよ。それは良くないですからね。

香山:あまりにも反社会的なゲームは、そうした問題があるかもしれません。でもよく考えてみれば、反社会的な世界観は小説などにもありますよね。子どもっていうのは、そういうものを読みながらいろいろ検証していって、「これは本当に良いんだろうか?」と学習したりするわけじゃないですか。「悪いと言われているもの」は絶対に見せちゃいけなくて、いつも「優しくて可愛いらしいもの」ばかり見せていれば良いっていうことではないと思うんですよ。むしろ、危なかったり問題のあるゲームをやった時、友だちと「これって、ヤバくない?」とか「本当にこれで良いと思う?」と話せるとか、そういうことが大事だと思うんですよね。

――今後、ゲームに期待したいことは?


香山:今はネットがありますから、外に出なくても色々なものにアクセスできますよね。でもネットの先には予定調和的な世界が無いので、エキサイティングだけど何が起きるかわからないと思うのです。社会性がまだ充分に備わっていない子どもがいきなりそこに入り込むというのは、やっぱり色々な意味でリスキーだと思います。そういう意味で、ゲームのような“作られたソフト”は必要なものかもしれません。ちゃんと脈絡があるストーリーの中で、現実では味わえない感覚を味わえて、いろんな体験ができて、最終的にはきっちり終末を迎えるっていう。精神や心が拡張する体験を味わいながら、子どもの想像力を広げることができると思うのです。子どもがゲーム世界のファンタジーのなかで自分のイマジネーションを広げて、最後にちゃんとたためるっていうね。そういう役割はあると思うので、それをどう活用するべきかですよね。但し、どう有効なのかを立証していくのは、非常に難しいのですが。


 「悪さ」というものは、何か悪い例が一つあれば「こんなに悪い」って言えるじゃないですか。でも、「良かった」っていう例はなかなか難しいので、その辺を私は何とかしたいと思っているのです。「勉強ができるようになるゲーム」とか、そういうものとは違う、「従来のロールプレイングゲームの効用」みたいなことをきちんと言えることができたらなあと考えています。

なるほどなるほど
こういうのを踏まえた上で
僕はどういう方向に考えていけばいいのだろうか・・・難しいです