最近気になった記事

2010-07-20

iPad,iPhoneは文明の利器ですので、上手に利用していく必要があります。しかし、便利だからこそ、溺れてはいけない。ぐうたらになってはいけない。安易に無駄な情報収集ばかりで時間を浪費させてはいけないと思うのです。情報収集オタクは、雑学オタクと同じで、生産的な人ではありません。(情報収集は大事なことですが、一歩間違えば、最大の生産性阻害要因にもなります。)

情報に溺れてるLuciealです。
意識したいことでありますし、意識させたいことでもあります。

いまさらながら、「朝まで生テレビ~若者不幸社会~」東浩紀 ”退席” に思う - 橋本治とナンシー関のいない世界で

田原「なんで日本人は自信失ってるの?」
東「それは、すぐこうやって景気の話とか税金の話とかばっかりやって、
  暗い話しか出てこないんですよ。だからといってお金の話を軽視するわけ
  じゃないんですよ・・・」


そしたら田原総一郎が言ったのが以下の言葉だ。
 

 「戦後の日本はね、金の話以外はできなかったんだよ。」

僕はTVをきちんと見たわけではなく記事をつまみ食いした程度です。すいません。
退場シーンばかり取り上げられてますが、ここの部分にはハッとさせられました。
果たして僕達は変化に適応できているのだろうか、流されているだけではないのか、置いてかれているのではないのか。


http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1311.html

何故かヱヴァQが脳裏をよぎった

2010-03-25

わたしも規制反対派だったけど、なんかもういろいろゴチャゴチャしはじめて
追いかけるのもめんどくさいし、まあぶっちゃけ自分の生活には関係ないし、
まあいいや、忘れよう、って思ってしまいそう。


引き続きわたしは中立の視点と問題意識を持って関心を持ち続けようと思いますが
こういう、「声を上げなければ反対ではないとカウントされてしまう」
ような流れのときに、「無関心」な人を増やすのはあんまりうまくない。

認知的負荷がかかるものには関心を示さなくなってしまう みたいなカッコつけた解釈で大丈夫なのだろうか
如何に「関心を持ってもらう」かが僕の研究の課題でもある
ので今回の規制問題とかは大変参考にするべきだと思うのでした。


あと

理想だけじゃ運用に乗らないけど、理想を唱えないと
あっという間に悪い方に流れていっちゃう。

これは真実だと思う。綺麗言は忘れちゃいけない。

レクサス最上級車を見舞った「直進に戻らない」不具合(1/4) | JBpress(日本ビジネスプレス)

まあ車を運転したことが無いのであれなのですが、こんな機構が備わっているなんて知らなかったです

http://para-fall.tumblr.com/post/888284133

この方のTumblrから記事を引っ張らせてもらっています。
いつもありがとうございます。とっても興味深いです。

http://d.hatena.ne.jp/Hiromu24utti/20081031/p2

自分の好きなことの本質・・・要思考ですね

http://www.surfcom.jp/shop/randomtalk/12index.html

岡田
そうそうそう。だいたいね、「監督もできないし、脚本も書けないし」っていうのは、「"いい"監督になれないし、"いい"脚本が書けない」っていう意味で言ってるんでね。下手な脚本を書いてはいけないと思うから、書けないだけで。世の中には、下手な脚本を書くプロなんていっぱいいますよ(笑)。
文章なら「締め切りに間に合えばいいや」って思えるのに、映画って考えた瞬間にプロ的に考えられなかったわけでしょう。男がご飯つくれないのと同じですよ。ちゃんとした食事を作ろうと思うから台所で立ちすくむんであって、不味いものだったら誰だってつくれる。ハードルを下げればいいんです。

あたりまえのことだけど忘れがちなことでもある
というかもうなんか染み付いちゃってあれですねハードル

思考の余剰が世界を変える

なかなか理解ができてないポンコツ頭め
とりあえず心に残った部分を引用します

思考の余剰にはあと半分の要素があるのです。20世紀のメディアの状況は人々に消費を促すことに長けていました。結果として私達はよく消費するようになりました。しかし今やネットや携帯のようなメディアの道具によって消費以上のことができるようになりました。人々がテレビ漬けだったのは、好きこのんでそうしていたのではなかったのです。私達に与えられていた機会がそれしかなかったからに過ぎません。もちろん私達は今でも消費するのは好きです。しかし作ることも共有することも好きなことがはっきりしました。古くからある人間のモチベーションと現代のツールが一緒になって大規模な労作への参加欲求を実現可能なものにし、それが新しいデザインのためのリソースとなっているのです。そして思考の余剰を利用した本当に見事な実験を目にするようになりました。科学や、文学や、芸術や、政治活動、それにデザイン。そしてもちろん、たくさんのLOLcatsです。

凡庸なものから優れたものまで、作品は連続しています。芸術家としてクリエーターとして働いたことがある人なら、それが頂上に向かって上り続ける連続した段階だとお分りになるでしょう。ギャップがあるのは、何かを作ることと何も作らないことの間です。そしてLOLcatsを作っている人たちは既にこのギャップを越えているのです。LOLcatsなしに直接Ushahidiへ、その場限りのものを飛ばして本質的なものだけを取りたいと思うかもしれません。しかし豊かなメディアというのは決してそのようには機能しないのです。実験する自由があるというのは、どんな実験をするのも自由だということです。神聖なる活版印刷においてさえ、科学論文誌が現れる150年前にポルノ小説が現れているのですから。

あと、罰金の話はとても興味深い事例だと思いました。

知っていることと知りたいこと、知らないこと: 松浦晋也のL/D

 知られていないから、皆知りたがらない。だからますます知られない――クラシック音楽はいつもこんなマイナスのスパイラルと戦っている。


 そして科学報道も。

 知らないものを知りたがらない人々に、新しい物を知らしめる方法は存在する。マスメディアでヘヴィ・ローテーションをかけて、無意識のうちにその情報にふれている状態を作り出す。つまり、知らないものをいつのまにか「知っていること」に割り込ませてしまうのである。


 音楽業界ではよく使われる手法だ。テレビドラマの主題歌タイアップというのもこの手法の一つである。ドラマを見ている人に、音楽を刷り込んでしまうわけである。


 しかし、科学報道で同じ手法は使えない。結局、Tさんも私も延々と匍匐前進を続けるしかないのだろう。

一朝一夕に行かないし、それを日夜頑張っている人もいるということを肝に銘じておこう。